人を創る。
市進教育グループ50年史
企業情報

市進ホールディングス 50年史 「1965~1970年」

市進のはじまり
~将来、日本で求められる教育産業へ向けて~

時代を見据えた先に育まれた、学習塾創業の思い

東京オリンピックを無事に終え、日本が名実ともに世界に冠たる経済大国としての地位を示した1964年。その翌年、千葉県市川市の真間川の流れる地区に「真間進学会」が創立される。創立者は梅田威男である。

当時、梅田は高度成長期を謳歌している日本の将来を見据えたときに、資源を持たない国である日本では、いずれ第三次産業の時代が来ると考えていた。一度は就職し社会へ出たものの再び大学へ戻り経営を学び、同時期に真間進学会を運営していた。並行して公認会計士の資格試験の勉強にも励み、1970年には公認会計士第二次試験に合格した。

経営学、会計学の知識を身につけ、サービス産業の勃興を予感していた梅田にとって、真間進学会での日々は大いなる刺激となっていた。
「サービス産業が社会の中で大きな存在感を示す時代になったとき、教育こそ重要な産業になるのではないか」と考えた。

学習塾を運営しながら公認会計士事務所で会計と経営実務の習得に励んでいた梅田は、学習塾の経営を本格化させるべく、真間進学会を「市川進学教室」に改称する。

可能性が未知数であった学習塾業界で起業した梅田威男の独立心は、市進がこの先、挑戦し続けることで獲得していく数々の事業、個別指導への取り組みや映像コンテンツの制作へとつながる、市進のDNAといえる。

学習塾経営の基盤を市川市へ

太平洋戦争の終結から10年以上が経ち、「もはや戦後ではない」の言葉が市民の間にも実感として感じられてきた1960年代、生活が豊かになるにつれ大学進学率も徐々に高まりを見せていた。いい大学へ入るためには、いい中学・高校へという親の期待感が子どもたちを塾へと通わせることとなった。やがて、この流れが過熱して、1970年代後半からの“受験戦争”へと突入することになる。

梅田が「真間進学会」を設立した1965年といえば、まさに学習塾業界の黎明期であり、その多くが個人経営であった。その当時、すでに経営理論を持ち、1975年の株式会社化をも視野に入れていた梅田には先見性があったと言えるだろう。

梅田はなぜ市川で塾を創業することになったのか。1964年東京オリンピックの開催や1970年に開催された大阪万博などもあり、国民総生産が世界第2位となるなど経済が成長する中、ベッドタウンが都心近郊に形成されてきた。東京近郊や郊外の教育人口増加が見込まれる中、当時、市川市は教育熱が高く、教育水準も高い地域であり、それならばと梅田は自ら市川で学習塾を開いてみたいと思い、「真間進学会」を開くに至ったのである。後の教室展開においても、教育人口の増加が見込まれる郊外を優先することとなった。
「真間進学会」から「市川進学教室」へと名前を変え、学習塾経営はいよいよ本格化していく。

▲ TOP