人を創る。
市進教育グループ50年史
企業情報

市進ホールディングス 50年史 「1971~1975年」

株式会社化前夜
~市進の基礎となった「手作り教育」と「手作り教育のシステム化」~

学校群制度の導入と私立校人気

当時の本八幡駅駅舎

1970年に「真間進学会」の名称を「市川進学教室」と変え、本八幡駅近くへ拠点を移して新たなスタートを切り、1975年に株式会社化を果たすまでの5年間で、学習塾としての基盤と、企業としての体質強化を推し進めた。

当時、塾業界には監督官庁がなく(現在は経済産業省によって「対個人サービス業」とされている)、塾の数も少なかったため極端なことを言えば看板を掲げたその日から、誰でも塾を開業できた時代だった。

1967年に東京都では都立高校の入試において、いくつかの学校をグループ化し合格者を調整する「学校群制度」が導入される。その後、1975年から3年間に渡り千葉県でも導入されることになる学校群制度とは、公立高校をエリアごとに学校群として分け、エリア内の学校間格差をなくし、教育水準を平準化するという狙いで、試験で良い点数を出しても希望する学校へ進学できるとは限らないという制度だ。
この制度は、当然のように受験生からは不評を買った。実際に学校群制度が始まって以降、公立高校からの難関大学への進学率は低迷していく。
その反面、私立高校の人気は一気に高まり、難関大学を目指す生徒はこぞって私立高校受験へシフトしていく。塾業界も、この流れを捉えて生徒数を大幅に増やしていった。

暗中模索の「手作り教育のシステム化」

当時のパンフレット

塾への需要の高まりと、サービス産業として実績を求められる人気商売である塾業界の中で市川進学教室は、長期的なビジョンに基づいた教育システム作りを着実に進めていった。

「手作り教育」をシステム化するとは、教科ごとのカリキュラム、教材、テスト、指導法を形式知として確立することである。現在の塾においては、当たり前とされる内容だが、新興産業で前例がない時代にここまでシステマチックに経営をしていた塾は数少ない。
「手作り教育のシステム化」に取り組んだ背景には、市川進学教室を市川にとどめることなく広く展開していくという経営方針があったからに他ならない。

当時、塾での指導に特化した受験対策用の教材などは種類も少なく、自分たちで作っていくしかなかった。また、受験に受かるためのカリキュラムも中学受験、高校受験向けにそれぞれ作り上げていった。各学校の受験問題に基づいて、どこまで教えれば合格できるのかを判断し、それに沿ってカリキュラムを組むという、まさに手作りだった。

「手作り教育のシステム化」における指導法は、講師の発声法や板書技術に至るまで細かく練り上げられ、その後、拠点展開していく際には、講師の研修メニューの基本となった。

また、小中学生を対象とした全教科指導も生み出された。全教科指導とは英数国理社のすべてをひとりの講師が担当する指導法である。また加えて、1つのクラスを2人の講師が担当するクラス担任制も導入された。
そこにはいくつかの狙いがあった。まず、ひとりの講師が全教科を担当することで、教科ごとの出来不出来をトータルに把握することができるので、例えば宿題を出す際、他の教科と合わせたときに宿題が多すぎて生徒の負担にならないかなどをトータルに判断できるのである。さらに、2人でクラスを担当することで生徒を多面的に評価し、また講師同士も互いの強みと弱みをサポートしつつ生徒の成績を伸ばすことができる。経営的には、ひとりの講師が全教科を担当するので、人材効率の面でメリットがある。

こうした方法論もすべては、手探りのなかで少しずつ積み上げた経験から編み出されていった。

そうして迎えた1975年6月、梅田を代表取締役社長として、株式会社市川進学教室が設立された。時代とともにめまぐるしく変化する教育産業の中で、存在感を増すこととなる。

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