人を創る。
市進教育グループ50年史
企業情報

市進ホールディングス 50年史 「1986~1990年」

成長期の到来
~内部体制をかため、飛躍的な成長を遂げる~

ブランド力のある進学塾として躍進

右肩上がりに伸びていた生徒数と売上

1980年代後半。市進は、それまでの20年で蓄積してきた情報やノウハウなどを活かし、拠点拡大に舵を切ろうとしていた。時代は戦後類を見ないほどの好景気。日経平均株価は38,915円、東京23区の地価は一平方メートル当たり2,850万円と史上最高となる巨額な数字をたたき出すなど、この上ない好況のただ中にあった。第二次ベビーブーム世代が高校・大学受験を迎えるというさらなる条件を味方につけ、市進50年史上で成長期と呼べる時代の幕開けとなった。

この時代、どの教室も開校するとすぐに200名以上の生徒が集まった。1982年には10.7億円だった売上および5,200名だった生徒数は、1987年には38.4億円および15,000名と、いずれもわずか5年で約3倍に成長。教室を開校するたびに生徒数も売上も大きく伸びていき、破竹の勢いで千葉県内に拠点を広げていったのである。

1986年以降、年に3~4拠点というペースで開校し、本格的な拠点拡大に乗り出そうとしていた市進にとって、数年後の首都圏展開および株式公開をも見据えた内部体制づくりに本腰を入れる時期が来ていた。そのために必要なものは何か。毎年25%ずつ成長することを目標とした「25(にーごー)理論」をもとに総指揮をとってきた梅田威男は「体力」「体質」「成長力」の三位一体が必要であると考えていた。

「体力」とは、社会に信頼され、そして貢献できる組織力を意味した。それを実現するために重視したのは、創立から20年の間に蓄積してきた精度の高い情報を社会に発信し、提供することだ。インターネットが普及していなかった当時、塾は受験情報を得る場としての役割も大きく、いかに有益な情報や教材を確保しているかということが塾の最大の強みのひとつだった。

「体質」とは、社員一人ひとりが高い志を持ってチャレンジし、自己の能力をいかんなく発揮できる企業風土のこと。「成長力」とは、研究開発力を底上げして質の高い商品・サービスを提供することで、市進の知名度とともにブランド力をさらに向上させることだった。

反響を呼んだ「中学受験ガイド」と「大学受験ガイド」

情報発信の取り組みとして大きな要となったのは、市進独自の情報をフル活用した「受験ガイド」を刊行することだった。そのために、1986年3月には教材の作成を行う「情報出版室」を綜合研究所内に、同年6月にはその印刷や物流までを担う「株式会社友進」を設立。1985年に先駆けて出版した「高校受験ガイド(千葉県版)」に続き、「中学受験ガイド」「大学受験ガイド」の刊行を実現させた。

システム開発室のMT

1987年には、業務のOA(オフィス・オートメーション)化を目指して、綜合研究所に「システム開発室」を開設。翌1988年に本格稼働して以降、市進で行う定期試験の偏差値をデータベース化し、各校の入試レベルと偏差値の基準を「受験ガイド」に掲載することが可能になった。早くからOA化を導入したことで、情報の精度や充実化を飛躍的に高めることに成功したのだ。

また同年9月には、勤務地の希望はもちろん、今後どのような仕事をやりたいかなどを社員が自ら申し出ることができる「自己申告制度」を発足。こうして教務・業務の両面から内部体制をかためていくことで、体力を強化し、着実に地盤をかためていった。

満を持していよいよ首都圏に拠点展開

1988年までに千葉県内に順調に教室を展開し、ついに千葉県の外に向かって一歩を踏み出した1989年。「OC(Out of Chiba)元年」と呼ばれた平成元年は、市進にとって首都圏展開をスタートさせた記念すべき年となった。

八王子教室

首都圏展開初となる教室は八王子と聖蹟桜ヶ丘に、初の予備校は八王子に開校。また同年3月には講師の研修を行う「研修開発室分室」を多摩地区に、4月には東京における人事採用のために東京事務所を千代田区九段に設置するなど、首都圏展開にあたってさまざまな整備が行われた。公立高校は都県ごとの違いは大きいが、真の学力を身につけるという市進の方針を問うこととなる。

高校受験ガイド4部作

1989年は、東京・神奈川・千葉・埼玉の公立高校に焦点を当てた「高校受験ガイド」4部作を同時出版したのも特筆すべき点だ。都県ごとの特徴を踏まえてさまざまな有益情報を盛り込んだガイドである。一都三県各地で市進学院の知名度を上げようという狙い通り、生徒本人だけでなく保護者や塾講師からも高い注目を集めた。

こうして、早くからオリジナルの情報を蓄積し、それを社会に発信してきた市進は、その強いブランド力を見事に見せつけたのだった。また、本拠地から抜け出して積極的に拠点展開をする塾としても先駆けであった。

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