人を創る。
市進教育グループ50年史
企業情報

市進ホールディングス 50年史 「1991~1995年」

さらなる発展へ 
~成長と拠点展開の継続~

教室・予備校ともに順調に拠点を拡大

バブル経済にかげりが見え始めた1991年。日本経済は前年の1990年に最高潮を迎えた後、急降下していく。しかし当然ながら、株価や地価が落ちたからといって即座に打撃を受ける企業ばかりではなく、民間が身を持って不況を実感するまでには時差があった。

藤沢校

市進にとってもそれは同じで、1991年は青葉台とたまプラーザで新たに教室を開設し、新天地である神奈川県への進出を果たすなど、事業を拡大させていた。さらに町田校、藤沢校と2つの予備校を一度に開設し、塾だけでなく予備校事業の拡大にも挑んでいく。

また同年は、業務第一本部に「総務第一室」「総務第二室」「施設開発室」「人事第一室」「人事第二室」を、業務第二本部に「経営管理室」「財務開発室」「業務監査室」を設置し業務本部の組織改革を推進するなど、株式公開に向けて本格的な準備に踏み切った年でもある。

だが、1993年頃になると世間では「倒産」「リストラ」という単語が連日のように飛び交い、さらにこの頃の日本は、子どもをターゲットとする事業にとって見過ごせない問題もクローズアップされていた。出生率の低下、いわゆる少子化問題である。「チャイルド・ショック」という言葉も生まれるなど、子どもの減少は不況に追い打ちをかけるように日本の未来に暗い影を落とした。

しかし、当時の塾業界において、景気の悪化がそのまま業績に影響するかというと決してそうではなかった。むしろ、「景気が悪ければ、有名大学の学歴がないと就職に影響する」というのが世の風潮であり、通塾率が落ちる気配は見えなかった。
さらに、子どもの人数は減っていても、子どもひとりに対する支出を表す「エンゼル係数」に著しい低下が見られなかった。子どもが少ないからこそひとりの子どもを大切に育てよう、良い教育を受けさせようという傾向が強まっていたのだ。

一人ひとりに最適な教育が求められる時代に

千葉から飛び出して、東京都、神奈川県と順調に拠点を拡大していった市進。当時、勝算を見出すに値したその強みとは何だったのかを改めて考えてみたい。

めんどうみの良さは当時からすでに定評

ひとつ目は、現在も変わらず市進のカラーとなっている「めんどうみ合格主義」にあった。熾烈な受験戦争に打ち勝つためには生徒を厳しく指導し、どんどんふるい落としていく傾向の強かった当時の進学塾にはめずらしく、無料で補講を行う、質問室をいつでもオープンにして生徒からの質問を受け付ける、月に一度保護者と電話で話すなど、今では当たり前だが当時としては手厚いといえるケアを徹底した。

ふたつ目は、創業当時から行っている、5教科すべてを1人の講師が受け持つ「トータル把握」を推進したこと。すべての教科を1人の講師が教える完全クラス担任制を取っている進学塾は、当時から大変めずらしい存在だったといえる。
市進がこの制度を取り入れていたのには、当然ながら明確な理由があった。ひとつは、教科ごとに講師をそろえれば必然的に講師と教室の数を増やさなくてはならないが、そのコストを抑えられるという費用面のメリットがあること。もうひとつは、生徒一人ひとりの弱点を把握できる、全教科を通じて宿題のバランスを調整できる、授業料をリーズナブルにできるという生徒にとってのメリットを打ち出せることだった。これが市進の強みのひとつである「めんどうみ」の良さにもつながったのである。

最後に、最低限高校に受かれば十分、期末・中間テストの点数を上げればそれで良いという指導法ではなく、真の学力を底上げするという市進の方針に基づき、都県ごとの公立高校受験の性質の違いは関係ないという考えがあった。

こうして市進学院・市進予備校ともに、郊外にリーズナブルな授業料で生徒数を確保しながら、順調に拠点展開を拡大していった。

だが、時代は確実に変化していた。一人ひとりが大事に育てられ、高い教育を受けさせたいという風潮が強まるほど、自ずと個人個人に最適な学習方法が求められるようになっていったのだ。

市進チューターバンク

1995年には、市進にとって初となる個人指導制の導入を決意。現在の「プロ家庭教師ウイング」の前身である「市進チューターバンク(ITB)」を設置し、家庭教師派遣事業をスタートさせた。

こうして、子ども一人ひとりの能力や性格に応じてサービスや品ぞろえを充実させることで「少子化問題」と向き合っていくこととなる。

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