人を創る。
市進教育グループ50年史
企業情報

市進ホールディングス 50年史 「1996~2000年」

新しい学び方への対応
~個別指導への参入~

家庭教師部門への注力で見えたもの

1996年、日本経済を大いに沸かせた景気は、すでに終わりを告げていた。1997年には山一證券の破綻が報じられ、目に見える形で未曾有の不況が訪れていることを日本中が実感していた。

株式店頭公開・公開会社説明会

そうした時代背景のなか、業容の拡大を目指す市進は、1996年に日本証券業協会に株式の店頭登録を果たし、株式公開企業となる。

業容拡大の流れを受けて1996年から1997年にかけては、神奈川県で展開していた家庭教師派遣部門である「市進チューターバンク(ITB)」の営業をまずは東京西部、さらに首都圏全域へと拡大を目指した。結果として、ITBは広く普及するには至らなかったが、そこで得たノウハウは、個別指導への道を切り開くことになる。

ITBの看板

ここで改めて家庭教師という業態について見てみたい。家庭教師のことを製造業になぞらえて当時はよく“受注生産”と呼んでいた。“需要”、つまり家庭教師をつけたい生徒が来た時点で、講師となる大学生を“供給”するので、固定費はせいぜい事務所経費程度である。授業料も集団指導と比べ高めに設定されるため、商売として考えると利幅は大きい。ただし、高額であるため大きな需要は望めない。

また、家庭教師のニーズは明確で、大きくふたつに分かれる。ひとつは東大や医大など難関大学を目指す場合、もうひとつは学校の授業にも取り残されてしまい、とにかく勉強をさせたいというケースである。
市進には進学塾部門があるので、ハイエンドなニーズに対応するべく神奈川県から東京西部、さらに首都圏全域へとITBを展開していった。

1998年には市進学院は茨城へ進出し、佐貫と新守谷に教室を開いた。千葉県内の常磐線エリアに展開していたことから、同じ路線の延長線上にある茨城への進出は業容拡大を考えれば自然な流れであり、佐貫や新守谷に住むニュータウンファミリーに対しても参入の余地はあった。現在は茨進グループを子会社化したことで、茨城県内はすべて茨進での展開となっているが、当時は茨進を競合相手としての進出だった。

総合教育サービス業へ

1998年には個別指導塾分野へと参入する。塾名は公募し「個太郎塾」となった。この頃の個別指導には学校の補習的な意味合いが強く、市進の強みとしていた進学の要素は少なかったため、進学塾が補習塾の分野に参入するという要素もあった。

市進内にも個別指導への新規参入には異論もあったが、1999年には個別指導教育を主業務とする株式会社個学舎も設立した。

グリーンを基調とした個学舎カラー

個別指導のスタイルは、市進が参入する10年程前から個人経営の塾として散見されていたが、個別指導といっても講師1人に生徒は3~4人の構成がほとんどだった。その点、市進は1対2という現在と同じスタイルを当初からとっており、より質の高い指導方法で差別化を図り、多くの生徒を集めることに成功した。

1990年代の最後に個太郎塾をスタートさせた市進は、新しい世紀に入るとともにその事業を本格化していく。一方、1999年から2002年にかけて21教室の新設展開と並行して、6教室の撤退を実施した。それまで拠点を撤退することはなく、拡大路線を続けてきたが、拠点展開だけを検討すれば良い時代は終了した。

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